
なぜ石井裕一が
福島に行ったのか
劇作家ニス=モンメ・シュトックマンは、2011年の福島第一原発事故に強い衝撃を受けた。2012年、最初の訪問。放射線量が依然として高い地域を歩き、帰還困難区域の住民たちの声を聞いた。2016年、2度目の訪問。5年が経過した被災地の変化——復興の兆しと、変わらない苦しみの両方を記録した。
2021年、シュトックマンは3度目の福島訪問を計画した。今回は俳優たちと共に訪れ、現地の人々と直接対話し、それを舞台作品に反映させる予定だった。しかし、コロナ禍が全てを阻んだ。ドイツから日本への渡航は不可能になった。
渡航できないシュトックマンは、あるアイデアを思いつく。ヘルツォークの映画で知ったFamily Romanceに連絡し、石井裕一に「代理人」を依頼したのだ。レンタル家族のビジネスモデルを、芸術作品の制作方法論として転用する——前代未聞の試みだった。
人間レンタルサービスが芸術的方法論になった。「代わりに行く」というビジネスが、「代わりに見る」「代わりに聞く」「代わりに感じる」という芸術行為に変容した。
この依頼には深い皮肉が含まれていた。シュトックマン自身が福島に行けないから、レンタル家族業者に代理を頼む——それは、原発事故の「見えない」影響と同じく、不在と存在の境界を曖昧にする行為だった。そして石井にとって、それは日常の仕事の延長でもあった——誰かの代わりに、誰かの前に立ち、誰かの話を聞く。
シュトックマンの福島訪問
2012
最初の訪問。放射線量が高い地域を歩き、帰還困難区域の住民の声を聞く
2016
2度目の訪問。5年の変化——復興の兆しと、変わらない苦しみの両方を記録
2021
コロナ禍で渡航不可。石井裕一に「代理人」を依頼
東京から福島へ

新幹線の券売機で福島への切符を購入する石井裕一
2021年12月、石井裕一は東京駅から新幹線に乗った。行き先は福島。ドイツ人劇作家の「代理人」として——しかしそれは、石井がこれまで引き受けてきた「代理」の仕事とは根本的に異なるものだった。
レンタル家族の仕事では、石井は「誰かの父」「誰かの夫」「誰かの友人」を演じる。しかし今回は、劇作家の「目」と「耳」の代理だった。被災地の風景を見て、住民の声を聞いて、その全てをドイツに届ける——石井の身体が、シュトックマンの感覚器官になる。


駅構内を歩く石井裕一。マスク越しの視線の先には、被災地が待っていた
新幹線の車窓から見える風景は、東京から離れるにつれて変わっていく。都市が田園に、田園が荒野に——石井は、誰かの代わりに災害の地に向かうという行為の重さを、列車の揺れの中で感じていた。
誰かの代わりに被災地に立つ。その「代わり」という行為そのものが、この舞台作品の核心だった。
かつて人が暮らした場所
石井が見たのは、10年の時間が停止した世界だった。壊れたテレビ、崩れた階段、歪んだ窓枠——かつて人々の日常があった場所は、津波と原発事故によって永遠に変わってしまった。沈黙だけが、この場所がかつて生きていたことを語っていた。

原発事故から10年。帰還困難区域の建物は、時間が止まったまま崩壊を続けていた。階段には瓦礫が積もり、窓枠は津波の力で歪み、鉄骨はむき出しになっていた。放射線は目に見えない。しかしその「見えない力」が、この場所の全てを変えてしまった。
石井はビデオカメラを回しながら、シュトックマンに代わってこの場所を記録した。レンタル家族として培ってきた「観察力」——依頼者の表情を読み、場の空気を感じ取る力——が、ここでは被災地の沈黙を読み取る力になった。
沈黙は雄弁だった。壊れたテレビ、歪んだ窓枠、崩れた壁——全てが「見えない原子炉」の痕跡を語っていた。





福島県南相馬市・浪江町にて撮影
浪江町立請戸小学校

浪江町立請戸小学校は、2011年3月11日の津波で甚大な被害を受けた震災遺構として保存されている。この場所に立つことは、石井にとって単なる「取材」ではなかった。子どもたちが学び、遊び、笑っていた場所が、一瞬で破壊された——その事実の前に、「代理人」という立場は意味を失った。
石井は記念碑の前に立ち、シュトックマンの代理としてではなく、一人の人間としてこの場所の重みを感じた。レンタル家族の仕事では、石井は常に「誰かの代わり」だった。しかしここでは、代理であることと、自分自身であることの境界が溶けた。この場所の悲しみは、代理を通してでも、直接であっても、同じ重さで心に届いた。
子どもたちがかつて走り回っていた場所に立つ。「代理人」という肩書きは、この場所の前では何の意味も持たなかった。



震災遺構 浪江町立請戸小学校
聞くこと、寄り添うこと

被災地の住民宅を訪問し、話を聞く石井裕一
石井はシュトックマンの「代理人」として、過去の訪問で劇作家が出会った人々を訪ねた。原発事故で家を失った住民、帰還を決意した農家、除染作業に従事した労働者——それぞれが10年間の物語を持っていた。
石井がこの仕事に適任だったのは、レンタル家族として培った「聞く力」があったからだ。介護福祉士として、そしてレンタル家族業者として、石井は「相手の話に寄り添う」プロフェッショナルだった。福島の住民たちは、見知らぬ日本人男性——ドイツ人劇作家の代理人——に、自分たちの10年間を語った。

住民の話を聞いた後、物思いにふける石井裕一
住民たちは石井に向かって話していたが、その言葉はドイツの劇作家に届くものだった。石井は「透明な媒介者」——そこにいるのに、そこにいない存在——として機能した。人間レンタルとドキュメンタリーが交差する、かつてない瞬間だった。
喪失と回復の物語を聞く。レンタル家族として「寄り添う力」を培ってきた石井だからこそ、住民たちは心を開いた。
他者の物語を背負って
福島での数日間を終え、石井は東京に戻った。彼が持ち帰ったのは、映像と写真だけではなかった。住民たちの声、被災地の沈黙、請戸小学校の記念碑の前で感じた重み——他者の物語が、石井の中に沈殿していた。
レンタル家族の仕事では、石井は依頼が終われば「役」を脱ぐ。しかし福島の体験は、脱ぐことのできない衣のように石井に纏わりついた。代理人として訪れたはずの場所が、石井自身の記憶になっていた。シュトックマンの代わりに見たもの、聞いたもの、感じたもの——それは石井のものでもあった。
石井が福島から持ち帰ったもの——それはドイツの劇作家への報告書であると同時に、石井自身の人生に刻まれた傷跡でもあった。
石井が撮影した映像は、後にニュルンベルク州立劇場の舞台で投影されることになる。巨大なスクリーンの中の石井、そして石井のカメラが捉えた福島の風景——ドイツの観客は、日本のレンタル家族業者の目を通して、原発事故の痕跡を見ることになる。

被災地を歩く石井裕一の後ろ姿

福島を離れる石井裕一。行きとは違う重さを背負って

震災遺構 浪江町立請戸小学校にて

住民へのインタビュー

廃墟の中の壊れたテレビ

新幹線の券売機にて

駅にて

駅の通路を歩く

階段に積もった瓦礫

展示ケースを見つめる

破壊された建物内部

通りを歩く石井裕一(横顔)

被災した校舎の外観

被災した建物のクローズアップ

構造的損傷の詳細

津波標識のある校舎

金属の残骸

物思いにふける石井裕一

後ろ姿(思索的)

券売機にて(帰路)