学校行事は、レンタル父親にとって最大の試練だ。
普段の「父親業務」——公園で遊ぶ、一緒に食事をする、誕生日を祝う——は、基本的に閉じた空間で行われる。家族だけの世界だ。第三者の目はない。
でも学校行事は違う。先生がいる。他の保護者がいる。地域の人がいる。大勢の前で「父親」を演じなければならない。
そして、バレたら全てが終わる。
運動会——最大の舞台
運動会は、レンタル父親にとって一年で最も緊張するイベントだ。
朝7時。校門の前に到着する。場所取りのシートを持って。ビデオカメラを持って。お弁当を持って。周りには同じように場所取りに来た保護者たちが並んでいる。
「おはようございます」「今日は暑くなりそうですね」「お子さん、何年生ですか?」
何気ない挨拶。でも、一つ一つが地雷だ。「お仕事は何されてるんですか?」と聞かれれば、設定通りに答えなければならない。「ご近所ですか?」と聞かれれば、住所を知っているふりをしなければならない。
ある運動会で、隣のシートのお父さんに話しかけられた。
「あれ? お父さん、前にどこかでお会いしましたっけ?」
心臓が跳ねた。このお父さんは、別の学校の運動会で見かけた顔だった。別の「家族」の運動会にも出ていたのだ。つまり、この人も「レンタル」なのか?——いや、違う。子供の顔を見れば、親子の血のつながりがわかる。
「いえ、初めてだと思いますよ」と笑顔で答えた。
「そうですか。似ている人がいるんですかね」と相手も笑った。でも、あの一瞬の恐怖は忘れられない。
応援席の孤独
運動会の応援席は、不思議な場所だ。
何百人もの保護者が、我が子の出番を待っている。歓声を上げる。ビデオを回す。「がんばれ!」と叫ぶ。
僕も叫ぶ。「がんばれ!」と。ビデオも回す。本気で応援する。
でも、心のどこかで知っている。僕だけが「嘘の父親」だと。周りの何百人の保護者の中で、僕だけが「偽物」だと。
子供がかけっこで1位になった。「やったー!」と叫ぶ。隣のお母さんが「お子さん、速いですね!」と言ってくれる。「ありがとうございます。毎日走ってますから」と答える。
嘘だ。毎日走っているかどうか、僕は知らない。母親から聞いた情報を元に、それらしく答えているだけだ。
でも、子供がゴールした瞬間の喜びは本物だった。それだけは、嘘ではなかった。

運動会の応援席で、何百人の中の「偽物の父親」として叫ぶ
授業参観——教室という密室
授業参観は、運動会とは別の種類の緊張がある。
教室は狭い。保護者同士の距離が近い。顔がよく見える。声も聞こえる。そして、時間が長い。45分間、じっと立っている。
子供が手を挙げて発言する。「うちのお父さんは、外国で仕事をしています」——作文の発表で、子供がそう読み上げた。クラスメイトが「すげー!」と反応する。先生が「お父さんのお仕事、素敵ですね」と言う。
教室の後ろで立っている僕に、何人かの保護者が視線を向ける。「あれがお父さんか」という視線。僕は微笑んで頷く。
授業参観の後は、たいてい「保護者懇談会」がある。これがまた難関だ。
「お父さんが参加されるのは珍しいですね」と先生に言われる。確かに、保護者懇談会に出席する父親は少ない。だからこそ、目立つ。目立つことは、レンタル父親にとって最も避けたいことだ。
でも、母親が仕事で出席できないこともある。そのとき、「お父さん」が出るしかない。
「子供のことで何かあれば、いつでもご連絡ください」と先生に名刺を渡す。もちろん、名刺は偽物だ。連絡先は母親に転送されるようになっている。こういった細部まで、準備が必要だ。
三者面談——最も危険な30分
三者面談は、レンタル父親にとって最も危険なイベントだ。
先生と一対一で向かい合う。子供が隣にいる。先生は子供の成績、生活態度、友人関係について詳しく話す。そして、親としての意見を求められる。
「お父さん、ご家庭での様子はいかがですか?」
この質問が来ると、一瞬止まる。「家庭」——僕はこの子の家庭にはいない。月に1〜2回会うだけだ。でも、「家庭での様子」を知っている「ふり」をしなければならない。
母親との事前打ち合わせが生命線だ。最近の家での様子、勉強への取り組み、友達の話、悩んでいること。全てを聞いておく。それを面談で「自分の言葉」として語る。
「最近、算数が苦手みたいで、家でも苦戦しています。何かいい勉強法があれば教えてください」
先生は「そうですか、お父さんもちゃんと見てくださっているんですね」と安心した表情を見せる。
子供は、横で黙って聞いている。「お父さん、よく知ってるね」——その視線が、僕の胸を刺す。知っているのは、母親から聞いたからだ。でも、知ろうとしたのは本当だ。
「三者面談の30分間は、僕の人生で最も密度の高い30分だ。一言の間違いが、すべてを壊す。でも同時に、先生が子供を大切に思ってくれていることがわかる。その信頼に応えたいと思う」
— 石井裕一
学芸会と発表会——子供が輝く瞬間
学芸会や発表会は、運動会とは違う感動がある。
ステージの上で、子供が一生懸命セリフを言う。歌を歌う。楽器を演奏する。緊張で声が震える子もいる。間違えて泣き出す子もいる。
あるとき、7歳の女の子の学芸会に出た。彼女は「シンデレラ」の劇で妖精の役だった。たった2つのセリフ。「あなたの願いを叶えましょう」「さあ、舞踏会に行きましょう」
本番前、舞台袖から客席を覗いて「パパ来てる?」と確認する彼女。僕が手を振ると、安心したように笑った。
本番。彼女はセリフを完璧に言えた。声も大きかった。終わった後、客席に駆けてきて「パパ、上手にできた?」と聞く。
「最高だったよ」と答えた。
周りの保護者も「お嬢さん、上手でしたね」と声をかけてくれる。「ありがとうございます」と答えながら、僕は思う。この子にとって、「パパが見ていてくれた」ということが、どれだけ大きな意味を持つか。
「バレる」リスクとの戦い
学校行事で最も恐れるのは、「バレる」ことだ。
バレるパターンはいくつかある。
一つ目は、僕を知っている人がいるケース。ファミリーロマンスの活動がメディアに取り上げられることがある。映画にもなった。顔を知られている可能性はゼロではない。
二つ目は、別の「家族」の関係者に遭遇するケース。同じ地域に住む複数の「家族」の父親をしている場合、学区が重なることがある。PTA会長の妻が、別の学校で僕を見かけたら。考えるだけで冷や汗が出る。
三つ目は、子供同士のつながり。塾、習い事、地域のスポーツチーム。子供たちの交友関係は、学校を超えて広がっている。「あ、この前のお父さんと同じ人だ」と言われたら——。
対策は、地理的に離れた家庭を優先的に引き受けること。同じ区内で複数の「家族」は持たない。移動時間はかかるが、リスク管理のためだ。
それでも、100%安全ということはない。常に、緊張と隣り合わせだ。

学校行事のたびに、「バレない」ための細心の注意を払う
父の日プロジェクト——教室からの贈り物
6月の第3日曜日。父の日。
学校では、父の日に合わせた制作活動が行われる。「お父さんへの手紙」「お父さんの似顔絵」「お父さんへのプレゼント」。
シングルマザーの家庭にとって、この行事は残酷だ。「お父さんがいない」子供は、誰に向けて手紙を書けばいいのか。誰の似顔絵を描けばいいのか。
でも、レンタル父親がいる家庭の子供は、迷わない。「パパ」の似顔絵を描く。「パパへ」と手紙を書く。
僕は毎年、複数の子供から父の日のプレゼントをもらう。手作りのキーホルダー。紙粘土のペン立て。折り紙の花束。「パパいつもありがとう」と書かれたカード。
全て、大切に保管している。
ある年、9歳の男の子からもらった手紙にこう書いてあった。
「パパへ。パパはいつもいそがしくて、あんまりあえないけど、あえるときはすごくたのしいです。パパがいてくれてよかったです。ぼくのパパでいてくれて、ありがとう」
この手紙を読んだとき、僕は声を出して泣いた。「ぼくのパパでいてくれて、ありがとう」——この言葉の重さを、僕は一生忘れない。
他の保護者との距離感
学校行事で最も注意すべきは、他の保護者との距離感だ。
近すぎると、深い質問をされるリスクが高まる。遠すぎると、「あの家のお父さん、変わってるね」と噂になる。適度な距離感を保つ必要がある。
理想は、「感じの良い、でも少し寡黙なお父さん」というポジションだ。挨拶はする。世間話もする。でも、プライベートには踏み込ませない。「仕事が忙しくて」が万能の言い訳だ。
一番困るのは、「飲みに行きましょう」と誘われたときだ。父親同士の飲み会。断り続けるのも不自然だから、年に1回くらいは参加する。
酒の席では、口が軽くなる。周りのお父さんたちが、仕事の愚痴、夫婦関係の悩み、子育ての苦労を語る。僕も何か話さないと不自然だ。
「うちの子も反抗期で大変ですよ」——こういった当たり障りのない話をする。具体的なエピソードは避ける。深く聞かれたら「すみません、ちょっとトイレ」と席を外す。
神経を使う夜だ。でも、こういった場面を乗り越えることで、「あの家のお父さん」としての存在感が定着する。
「学校行事は、家族の『外側』で父親を演じることだ。家の中だけなら、ボロが出ても修正できる。でも学校では、何十人もの目が僕を見ている。一度の失敗が、取り返しのつかない結果を招く」
— 石井裕一
写真という証拠
学校行事では、大量の写真が撮られる。
集合写真、スナップ写真、記念写真。スマートフォンで撮る保護者も多い。そして、SNSに投稿する人もいる。
僕にとって、写真は「証拠」だ。僕がその場にいたことの証拠。複数の学校で「父親」をしていることがバレる可能性のある証拠。
だから、僕は写真に写ることを極力避ける。集合写真のときは端に立つ。スナップ写真のときは自然に顔をそらす。「写真苦手なんですよ」と笑って断る。
でも、子供と一緒の写真は別だ。子供が「パパと写真撮りたい!」と言ったら、断れない。その写真は、子供にとって「パパとの思い出」だ。僕のリスクより、子供の思い出の方が大切だ。
結果として、複数の家庭に「父親と子供の写真」が存在する。全ての写真に写っている「父親」は、同一人物だ。いつか、それが発覚するリスクはある。でも、子供の笑顔を優先する。
結び——学校は社会の縮図
学校行事に参加するたびに思う。
学校は、日本社会の縮図だ。「両親揃った家庭」が前提とされ、そこから外れる家庭は肩身が狭い。父親参観、母親参観、家族写真——すべてが「普通の家族」を基準に設計されている。
レンタル父親がいなければ、子供は運動会で一人で弁当を食べる。授業参観で誰も来ない教室の後ろを見る。父の日に白い紙を前にして固まる。
僕がいることで、その子は「普通」でいられる。それが正しいかどうかは、わからない。「普通」であることを求めること自体が、問題かもしれない。
でも、目の前の子供が笑っている。「パパが来てくれた」と嬉しそうにしている。その笑顔のために、僕は今日も学校の門をくぐる。
緊張しながら。「バレない」ことを祈りながら。それでも、子供の笑顔のために。
「学校行事は試練だ。でも、子供が『パパ来て!』と
— 石井裕一
笑顔で言ってくれる限り、僕はそこに立ち続ける」